「東レが値上げ」と聞くと、一企業の経営判断のように映る。だがこのニュースの本質は、単なる価格変更ではない。日本の素材産業が長年続けてきた価格決定の仕組みが、中東情勢という外圧によって変わり始めたことを示している。
ナフサとは何か——プラスチックから炭素繊維まで
まず「ナフサ」を知らないと話が始まらない。ナフサは石油を精製する過程で取り出される中間製品で、主にプラスチック・化学繊維・フィルム・樹脂などの原料として使われる。ガソリンに近い成分だが、燃料にはならず石油化学工業の「出発点」になる素材だ。
東レはこのナフサを大量に使う。炭素繊維(航空機の機体や自動車部材に使われる高強度素材)、樹脂フィルム、化学繊維など、同社の幅広い主力分野が石化原料の影響を受ける構造にある。
そのナフサの価格が、イラン情勢の緊迫化を受けて急騰している。ホルムズ海峡を通るタンカーの通航に懸念が生じ、アジア向けナフサの供給不安が広がった。石油化学工業協会のデータでは、日本の石化用ナフサの輸入は中東依存度が7割を超えており、中東情勢は直接的な打撃を与えうる。三井化学がエチレン生産を削減するなど、東レ以外でも影響が表面化しつつある。
「値上げ」ではなく「仕組みの変更」
東レが2026年3月から導入した「サーチャージ制度」は、原材料価格の上昇分を販売価格へ自動的に上乗せする仕組みだ。航空貨物や海運では燃料費の変動に連動する形で以前から使われている。しかし日本の素材産業ではこれまで一般的ではなく、価格は顧客との個別交渉で決めるのが慣例だった。
その商慣行の何が問題だったのか。BtoB(企業間取引)の素材・化学品では、自動車メーカーや家電メーカーといった大手顧客との長期的な関係が重要で、価格を変えるには交渉と合意が必要になる。ナフサが値上がりしても、その上昇分を製品価格に反映するまでに数か月かかるのが普通だった。
しかし今の状況では、数か月は待てない。東レによれば、今回のナフサ高騰のスピードは従来の交渉サイクルを超えている。個別に話し合っている間にコストが膨らみ続ける局面に追い込まれ、市況連動の自動調整の導入に踏み切ったとみられる。
なぜこれが「東レだけの話」ではないのか
今回の対象は主にプラスチック素材、炭素繊維、繊維だ。これらは自動車の内外装部材、スマートフォンや家電の筐体素材、航空機の機体、衣料品向けの化学繊維など、幅広い産業に波及しうる製品群だ。
つまり東レが価格転嫁を始めれば、その素材を使う自動車メーカー・家電メーカー・航空機メーカー・アパレル企業もコスト増圧力を受ける。直接の最終消費者には見えにくい形で、部品や製品のコスト構造が変わっていく可能性がある。

NHKが同じ記事パッケージで伝えた卵と都市ガスの見通しを見ると、対照的な構図が浮かぶ。卵の飼料コスト上昇は「秋以降に波及するおそれ」、都市ガスは「原油上昇から数か月後にLNG調達価格、さらに数か月後に料金へ反映される」とされている。家計に届くまでには時間差がある。一方、素材産業のサーチャージは個別交渉より早く企業間の価格へ反映されやすい。中東情勢による価格圧力は、まず企業間取引から動き始め、時間差をおいて家計へと伝わっていく構図だ。
「一時的措置」を信じていいのか
東レは今回の導入について「一時的な措置」と説明している。イラン情勢が落ち着き、ナフサ価格が安定すればサーチャージが解除されることはありうる。
ただし「一時的」かどうかは不明だ。日本の石化産業はナフサ高騰だけでなく、アジア全体の石化製品の供給過剰や製品市況の低迷という構造問題も抱えており、コスト転嫁ができない薄利の局面は今回の危機以前から続いていた。そこにイラン情勢が重なった。
東レは「一時的措置」と説明しているが、海運・航空で始まったサーチャージが定着したように、素材産業での自動調整型価格決定が広がるきっかけになる可能性がある。
(本稿は各種公開情報をもとに作成しました。一部数値は記事掲載時点の情報です)

