不安が世界を走るとき、お金はどこへ向かう?
2026年3月初め、ニュースを眺めると気になる数字が目に飛び込んでくる。「1ドル=157円台」。記憶にある方も多いだろうが、かつて政府が為替市場で強い姿勢を見せた局面に、じわじわと近づいている。
ただ、いまの市場が警戒しているのは「実弾介入」だけではない。最近は、当局が市場参加者にレートを照会する「レートチェック」といった“前触れ”だけでも、相場が大きく動くことがある。実際に資金を投じたかどうか以上に、「当局が動くかもしれない」という空気が、マーケットを揺らす。
なぜ、今この時期に円安が進んでいるのか。答えは遠く離れた中東にある。
トランプ米大統領が主導し、イスラエルと連携してイランへの攻撃に踏み切った。イラン側もミサイルや無人機などで報復し、応酬が続いている。直接の戦闘がどこで、どの規模で起きているかの確定は簡単ではないが、市場が敏感に感じ取っているのは「先行きが見えない」という空気だ。
「有事のドル買い」という古い法則
世界が不安定になると、投資家たちは手持ちの資産の「安全度」を見直しはじめる。株や新興国通貨など値動きの大きなものを手放し、より安定した資産へと資金を移す動きを「リスクオフ」と呼ぶ。
その逃げ込み先として長年、最も信頼されてきたのが米ドルだ。アメリカは世界最大の経済大国であり、ドルは国際取引の基軸通貨として圧倒的な流通量を誇る。「何があっても換金できる」という信頼が、有事の際にドル買いを引き起こす。
これが「有事のドル買い」と呼ばれる現象だ。ドルが買われるということは、裏返せば他の通貨が売られることを意味する。そして今回は、円が買われる局面があったとしても、その後は円安が優勢になっている。
「本来は円も安全なはずでは?」――崩れかけた常識
実は少し前まで、円もまた「有事に強い通貨」と見なされることが多かった。リーマンショックや東日本大震災の後など、世界的なリスクオフ局面では、むしろ円高になる場面すらあった。
ところが今回は様子が違う。英経済紙フィナンシャル・タイムズ(FT)は、「円が伝統的な逃避先として買われず、むしろ売られている」という点を特に問題視している。
なぜか。理由はいくつか指摘されているが、一つは日本のエネルギー構造だ。
日本は石油も天然ガスも国内ではほとんど産出できない。エネルギーの大半を輸入に頼る「輸入大国」だ。中東で紛争が起きれば、原油や天然ガスの価格が上がりやすい。すると、同じエネルギーを買うのに、より多くの円が必要になる。円安×資源高というダブルパンチが、日本経済に重くのしかかる構図だ。
そして今回は、価格だけでなく「物流そのもの」も不安定化し得る。イラン側がホルムズ海峡の封鎖を示唆し、通航船舶への威嚇が報じられるなかで、タンカーの滞留や運航回避が広がれば、それだけで供給不安は強まる。封鎖が完全に実現したかどうかの断定以前に、“通れないかもしれない”というリスクだけで、エネルギー市場は神経質になる。
さらにFTは、日本から海外への資金流出(対外投資の継続)や、日米の金利差なども円が売られやすい要因として挙げている。「円=安全資産」という方程式が、静かに書き換えられつつある、というわけだ。
財務大臣の言葉に込められたメッセージ
3月3日の閣議後の会見で、片山財務大臣は率直にこう述べた。
「足元の中東情勢を受けて、大きな変動が生じている。市場の動向を極めて高い緊張感を持って注視しており、海外の当局などとも緊密かつ機動的に連携しながら、万全の対応をとっていく」
さらに「有事のドル買い的な動きも、世界的には当然見られる。必要があれば、必要な対応をとっていく」とも付け加えた。
一見すると「様子を見ている」とも取れるこの発言だが、為替市場ではこうした官僚・政治家の言葉のトーンが非常に重要な意味を持つ。
財務相の発言は大きく三段階で捉えると分かりやすい。第一が「口先介入」だ。「注視」「緊張感」「必要なら対応」といった言葉を使って、市場に「政府は動く準備がある」というシグナルを送る。これだけでも、過度な投機的円売りを抑制する効果が期待される。
第二が、口先と実弾の“間”にある「レートチェック」だ。当局が市場参加者にレートを照会し、介入の準備をにおわせる。資金を投じなくても、「次は本当に来るかもしれない」という緊張が相場を引き締める。最近の市場は、この“前触れ”にも敏感だ。
第三が「実弾介入」である。財務省が実施を判断し、日銀が政府の代理として市場で執行するかたちで、円を買ってドルを売り、為替レートに直接働きかける。
ただし、為替介入は「円を守るため」に無制限に行えるわけではない。G7などで共有される基本原則のもと、「急激かつ過度な変動」を是正するための措置として位置づけられている。単純に「円安が嫌だから円を買う」というものではなく、スピードと変動幅が問題にされる。
日銀が抱えるジレンマ
一方で、日本銀行(日銀)は独自の問題を抱えている。植田総裁のもとで利上げを継続する基本方針を取っているが、今回の中東情勢はそこに難問を突きつけている。
原油高が続けばエネルギーコストが上がり、物価にも影響が及ぶ。それでも景気が不安定になれば、利上げを続けることが難しくなりかねない。「インフレ対応のために金利を上げたいが、景気を壊したくない」という板挟みだ。
しかも円安が進めば、輸入物価を通じてさらにインフレ圧力が強まるという連鎖もある。日銀がどう動くかは、現時点では不明だ。
この先、何を見ればいいのか
今回の円安騒動がどこまで広がるかは、まだ見通せない。ただ、以下のポイントを追っておくと、状況の変化が掴みやすいだろう。
中東情勢の推移――応酬が収まるか、さらに広がるかで、市場の不安度が変わる。焦点は軍事面だけでなく、エネルギー輸送のリスクがどこまで高まるかにもある。
原油・天然ガスの価格動向――日本への直撃度合いを左右する。価格が長期にわたり高止まりすれば、円安圧力も長引きやすい。
海上輸送の“詰まり”――ホルムズ海峡周辺でタンカーの滞留や運航回避、保険引き受けの厳格化が広がると、価格より先に供給不安が市場心理を支配しやすい。
財務相の言葉のトーン変化――「投機的な動き」「過度な変動」「断固たる措置」といった強い語彙が出てきたときは、実弾介入が近い可能性のサインとして市場では注目される。加えて、レートチェック観測の有無も重要な“前兆”になり得る。
ドル高の「質」――今回のドル高が「有事の安全資産需要」なのか、「アメリカのインフレが長引いて金利が高止まりしているからか」によって、どのくらい続くかが変わってくる。後者なら長引く可能性がある、というのが市場の一般的な見立てだ。
数字の向こう側にある生活
「1ドル=157円」という数字は、輸出企業の業績や投資家の損益だけの問題ではない。原油高が続けばガソリン代や光熱費、食料品の価格にも波及する。
遠い中東の緊張が、私たちの家計にまで影響を及ぼしているという現実。為替市場というのは、世界中の不安や期待を映し出す鏡でもある。片山財務相の「極めて高い緊張感」という言葉は、今の市場の空気をそのまま言い表しているのかもしれない。

