深夜の送電が問いかけるもの――柏崎刈羽原発、14年ぶりの系統接続

2026年2月15日夜から16日未明にかけて、新潟県の柏崎刈羽原子力発電所6号機が、首都圏への試験送電を開始する。2011年の福島第一原発事故以降、東京電力の原発が送電系統に接続されるのは、これが初めてだ。

わずか数時間の試験送電。出力も定格の約20%に過ぎない。しかしこの接続は、単なる技術的な手続きではない。14年という歳月をかけて、日本が「原発とどう向き合うのか」を問い続けてきた、その答えの一片がここにある。あるいは、答えではなく、新たな問いの始まりなのかもしれない。

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トラブルが映す「信頼」の重さ

柏崎刈羽6号機の再稼働は、順調とは言い難い道のりだった。

当初、再稼働は1月20日の予定だった。しかし直前に、制御棒の警報装置に設定ミスが見つかった。驚くべきことに、このミスは1996年の運転開始以来、29年間も放置されていた。再稼働は21日に延期された。

1月21日夜、約14年ぶりに原子炉が起動した。しかし今度は、制御棒の引き抜き作業中に警報が鳴った。調査の結果、機器の設定に問題があることが判明し、23日未明、原子炉は再び停止した。

2月9日、三度目の起動。午後3時過ぎに臨界に達したが、11日には高圧代替注水系の検査時に白いもやが発生し、放射性物質漏れの可能性を調べるために測定が行われた(結果は検出されず、保温材の水分が原因と判明)。12日には、原子炉内の中性子を計測する機器のスイッチで接触不良が発生。部品交換と動作確認に時間を要し、当初15日に予定されていた試験送電は半日程度遅れる見込みとなった。

一つひとつの不具合は、技術的には重大な事故につながるものではないかもしれない。東電の菊川浩ユニット所長も「不具合等が発生した場合は関係者が集まって議論を行い、一つ一つ慎重に対応していく」と説明し、むしろ「少しでもおかしいと思えば確認する」姿勢を強調している。

しかし社会が見ているのは、技術的な重大性だけではない。「29年間も見逃されていた設定ミス」「再起動のたびに止まる原子炉」――こうした事実が積み重なるとき、人々が疑うのは「本当に大丈夫なのか」という、もっと根本的な問いだ。

信頼は、数値では測れない。そして一度失われると、回復には想像を絶する時間がかかる。福島の記憶が、そのことを教えている。

段階的確認という新しい作法

今回の再稼働プロセスには、福島事故前にはなかった工程が組み込まれている。

試験送電(仮並列)のあと、16日にはタービンを意図的に高速回転させて、保護装置が働いて緊急停止できるかを確認する「過速度トリップ試験」を実施する。その後、再び送電網に接続(本並列)し、出力を約50%まで上げる。そして2月20日、「中間停止」という工程が待っている。

中間停止とは、長期停止後の再稼働であることを考慮し、途中でいったん原子炉を止めて、タービン系の健全性を確認するものだ。福島第一原発事故前の定期検査では、このような工程は実施されていなかった。

この段階的な確認は、慎重さの表れと評価できる。しかし見方を変えれば、「かつてのように、一気に進めることはもうできない」という現実の反映でもある。技術的な手順と、社会的な信頼の両方を、少しずつ積み上げていくしかない。営業運転開始は3月18日の予定だが、当初の2月26日から既に3週間延びている。

なぜ日本は原発を選んだのか

ここで一度、時計の針を戻したい。そもそも、なぜ日本は原子力発電を推進してきたのか。

戦後の高度成長期、日本の電力需要は爆発的に増加した。鉄鋼、化学、機械といった基幹産業は、24時間安定した電力供給を前提に成長した。家庭でも、冷蔵庫、洗濯機、テレビ、エアコンと、電化製品が次々に普及した。電力は、道路や港と同じく「国の土台」となった。

しかし日本には、使える化石燃料資源が限られていた。水力発電はダム適地に限界があり、国内炭(石炭)もコストや採掘条件の厳しさから次第に主役ではなくなった。結果として、石油や天然ガスなど、輸入燃料への依存が強まっていった。

輸入依存は、単に「海外から買う」という話ではない。国際情勢の変化が、そのまま電気代、製造コスト、貿易収支に跳ね返る。1970年代のオイルショックは、その脆弱性を痛いほど見せつけた。燃料価格が跳ね上がり、電力料金や製造コストが上がり、物価、景気、賃金交渉まで連鎖した。エネルギーは「家庭の光熱費」であると同時に、「国の経済安全保障」でもあった。

このとき原子力が持っていた魅力は、三つあった。

第一に、安定した大量供給。天候に左右される太陽光や風力と異なり、原発は一度動けば大量の電気を安定して作れる「ベースロード電源」だった。

第二に、燃料調達の分散効果。ウラン燃料は体積あたりのエネルギー密度が高く、発電所敷地内などで一定量を確保しやすい。石油のように日々大量に運び続ける必要が相対的に小さく、「物流や国際市場のショックに対して、供給をなだらかにできる」という考え方が成立した。

第三に、電力システムとの適合性。当時の日本は地域独占の電力会社が長期計画で設備投資する構造だった。原発は建設に時間も資金もかかるが、数十年単位で投資を回収する。需要が増え続ける見通しがあり、料金制度や投資回収の枠組みが用意されている環境では、大型・資本集約型の電源に向かいやすかった。

こうした背景のもと、国の政策、電力会社の設備計画、産業界の安定供給ニーズが同じ方向を向いた時期が、長く続いた。原発の拡大は、一定の合理性を持っていたのだ。

しかし2011年、その前提は崩れた。福島第一原発の事故は、「万が一」が現実になったとき、影響がどれほど広く深く続くかを突きつけた。全国の原発が次々に停止し、日本は火力発電に頼る構造へと傾いた。燃料代は膨らみ、電気代は上がり、CO₂排出量も増えた。

それから15年。エネルギー政策は、激しく揺れ続けている。

国内外で割れる論調

柏崎刈羽6号機の再稼働を、世界はどう見ているのか。

国内メディアの多くは、工程と不具合の事実を中心に報じる。共同通信系の報道は「福島事故後、東電の原発として初めて系統接続」「首都圏へ14年ぶり送電」「計測機器不具合で半日遅れ」など、「何が・いつ・どの手順で」を淡々と伝える。地元テレビは、東電側の説明と試験工程を丁寧に紹介し、「段階確認」という新しい運転作法を伝える傾向がある。

一方、海外メディアの論調は、日本の原子力回帰を「象徴的な案件」として捉える視点が強い。

ロイターやブルームバーグは、「東電として福島後初の再稼働」「最大級の発電所」といった形で、日本の電力政策・供給の文脈で説明する。投資家が気にする工程・タイムラインの説明が中心で、市場イベントとしての扱いが目立つ。

対照的に、APやガーディアンは、「住民反対」「避難計画(特に冬季)」「地震リスク」など、社会的受容性に焦点を当てる。APは福島事故の影響・コスト、世論を織り込み、「信頼回復の難しさ」に寄せた語り口になる。ガーディアンは「再稼働は技術問題だけでなく政治・社会問題」というフレームを強く打ち出す。

この論調の違いは、何を映しているのか。技術と経済の合理性を重視する視点と、信頼と社会的合意を問う視点。どちらが正しいというより、原発という問題が持つ多面性が、メディアによって異なる角度から照らし出されているのだ。

AI時代の新しい文脈

ここで、もう一つの文脈を加えたい。2020年代後半の今、電力を巡る状況は、福島事故当時とは異なる様相を呈している。

AI、データセンター、生成AIの急拡大だ。

ChatGPTに代表される大規模言語モデルは、学習にも推論にも膨大な計算資源を必要とする。データセンターは24時間365日、安定した電力供給を前提に稼働する。冷却設備を含めると、その電力消費は桁違いだ。

日本でも、AWS、Google、Microsoft、国内企業によるデータセンター建設ラッシュが続いている。AI開発競争は国家戦略でもあり、電力インフラは「AI競争力」そのものと見なされ始めている。

ここに、新しいジレンマが生まれる。「脱炭素」と「AI競争」の両立だ。

再生可能エネルギーは急速に発展し、コストも下がった。しかし太陽光や風力は天候に依存し、変動性がある。蓄電技術は進化しているが、データセンターのような大規模・連続的な需要を支えるには、まだ限界がある。火力発電はCO₂を排出する。

このとき、原発は「AI時代のインフラ」として再評価される可能性を持つ。大量の電力を、天候に左右されず、CO₂をほとんど出さずに供給できる。経済産業省の一部や産業界には、こうした視点から原発を見直す動きがある。

しかし、ここで立ち止まる必要がある。「AI時代だから原発が必要」という論理は、果たして十分だろうか。

私たちがAIを便利に使うために、将来世代が放射性廃棄物のリスクを負うのか。データセンターの電力需要のために、地震リスクのある地域の住民が避難計画を受け入れるのか。技術的・経済的な合理性だけで、この問いに答えられるだろうか。

AI時代の電力需要は、原発問題を「過去の遺物」ではなく「現在進行形の課題」として浮かび上がらせている。しかしそれは、単純な「原発推進」の根拠にはならない。むしろ、私たちに問いかけている。「どんな未来を選ぶのか」と。

残された構造問題

原発を巡る議論で、しばしば後景に退きがちだが、決して忘れてはならない問題がある。放射性廃棄物だ。

高レベル放射性廃棄物の最終処分場は、日本ではまだ決まっていない。この廃棄物は、数万年単位で安全に管理する必要がある。数万年とは、人類の文明の歴史を超える時間だ。

「トイレなきマンション」――原発はこう揶揄されてきた。電気を作ったあとに残る危険なゴミの行き先が決まらないまま、運転を続けてきた。再稼働は、この問題を再び先送りすることを意味する。

廃炉にも、膨大なコストと時間がかかる。福島第一原発の廃炉作業は、数十年単位で進行中だ。柏崎刈羽6号機も、いずれは廃炉を迎える。その費用は誰が負担するのか。

これらは技術的問題であると同時に、倫理的問題でもある。今の世代が電気の恩恵を受け、未来の世代が廃棄物のリスクと廃炉のコストを引き受ける。この非対称性を、私たちはどう正当化できるのだろうか。

選択肢はあるのか

では、原発以外に選択肢はないのか。

再生可能エネルギーは、急速に発展している。太陽光発電のコストは劇的に下がり、風力発電の技術も進化した。蓄電池の性能向上も著しい。「再エネだけで日本の電力を賄える」という主張も、かつてほど荒唐無稽には聞こえなくなった。

しかし課題もある。太陽光は夜間に発電できず、風力は風次第だ。変動性をどう吸収するか。大規模な蓄電設備か、広域での電力融通か、あるいは需要側の柔軟な調整か。技術的には可能でも、コストや時間、社会インフラの整備が追いつくのか。

火力発電は、現実的には当面必要だろう。しかしCO₂排出の問題がある。CCS(炭素回収・貯留)技術も研究されているが、商業的に確立しているとは言い難い。

省エネルギーや需要管理も重要だ。スマートグリッド、デマンドレスポンス、ライフスタイルの変化。電力需要そのものを減らす取り組みは、地味だが確実に効果がある。

次世代原子炉、例えば小型モジュール炉(SMR)のような、より安全性の高い技術の可能性もある。しかしこれらはまだ商業化の途上だ。

重要なのは、「原発vs再エネ」という二項対立を超えることだ。現実には、多様な電源のポートフォリオが必要になる。しかしそれぞれの選択肢には、トレードオフがある。完璧な解は、存在しない。

だからこそ、「何を優先するか」という価値判断が問われる。経済性か、安全性か、環境か、自立性か。そして、「誰が決めるのか」という民主主義の問題に行き着く。

14年ぶりの送電が問いかけるもの

2026年2月15日深夜、柏崎刈羽原発6号機から首都圏へ、14年ぶりに電気が送られる。

この送電は、「答え」ではない。むしろ、問いかけだ。

一つ目の問いは、経済合理性と巨大リスクのバランスをどう取るか。原発は電気を安定して作り、燃料輸入の負担を減らし、CO₂をほとんど出さない。AI時代の電力需要にも応えられる可能性がある。しかし、事故が起きたときの被害は計り知れない。確率が低くても、影響が巨大なリスクを、私たちは受け入れられるのか。

二つ目の問いは、技術的安全性と社会的信頼をどう両立させるか。新規制基準は厳しくなった。段階的確認のプロセスも導入された。しかし、設定ミスや接触不良が続くとき、社会は何を見ているのか。技術の安全性と、人々の信頼は、別物だ。透明性を高め、説明を尽くしても、失われた信頼はすぐには戻らない。

三つ目の問いは、AI時代の電力需要と、将来世代への責任をどう考えるか。私たちは便利さを求め、AIを使い、データセンターを必要とする。しかしその電力を、どう作るのか。原発を選ぶなら、放射性廃棄物という負の遺産を未来に残す。それは公正なのか。

これらの問いに、簡単な答えはない。専門家も、政治家も、地元住民も、私たち一人ひとりも、それぞれ異なる立場から考え続けている。

柏崎刈羽6号機の試験送電は、15年間の問いの「中間報告」に過ぎない。営業運転が始まっても、問いは消えない。日本のエネルギーの未来は、この問いにどう向き合い続けるかで決まる。

深夜の送電は、光を灯す。しかしその光が照らすのは、私たちがまだ答えを見つけていない、暗闇の広がりなのかもしれない。

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Person who wrote this article

CFP®/Level 1 Financial Planning Technician
Certified by the Japan Securities Analysts Association
・Primary Private Banker
・Asset Formation Consultant
Certified by the Financial and Financial Situation Study Group
・NISA Trading Advisor

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